私は幼い頃から母親や母方の祖父・祖母が日蓮宗の立正公正會を一生懸命にやっていて、仏壇には御本尊様が祀られており、朝晩の経典の読み上げやご飯・お水のお供えや神棚にもご飯・お水を供えご供養を欠かさずに365日やり、御墓参りもこまめにいき、幼心の私の心にも信仰心や神様、仏様、御先祖様は尊うもの偉大なものという気持ちが湧き起こりました。
私も母や祖父母の真似をしてご供養やお供え、御墓参りを一生懸命にやっていた記憶があります。
しかし私自身が社会人になり、仕事に就く様になったり、一人暮らしをする様になると自分にかまけ、御墓参りやご供養を行ったりさせていただく機会が少なくなりました。
咲かし私の心の中の信仰心は薄れていませんでした。
一番、一生懸命にご供養をさせてもらったのは、たった一人の弟が亡くなってからでした。
しかし実際は大切な弟が急性リンパ性白血病を患った時も私は仕事にかまけて弟に対したことも出来ず、せずで・・・
骨髄移植も身内は誰もあわず、骨髄バンクに頼らずおえずで医師、看護師さんにもすがる思いで頼るしかありませんでした。
しかし・・・弟が亡くなって焦燥感、悲しさ、寂しさ、虚しさ、言葉では言い表せない色々な感情、想いが湧き起こりました。
しかし、その分一生懸命にご供養、御墓参りをさせてもらいましたが・・・だんだんと怠慢な自分の心が出て、怠けてしまうようになってしまいました。
そしてそのうち私の心の中には医師に対する恨みの感情や怒り
医者なんて何の役にも立たない!
所詮は金儲けのためにしかやっていない!
神様も仏様ももう信じられない!
この世、この世界には存在していない!
何で助けてくれなかったんだ!と悔しい思いや「医者も宗教も信じられない!」と否定的、悲観的な気持ちしか沸き起こりませんでした。
しかし年忌や御墓参りは節目節目は行なっていましたが月日、年数が経つにつれ、おざなりになり弟やご先祖様、仏様に対し申し訳なさ、後悔の思いが募るばかりでした。
いつもそこには何から理由や言い訳をして、御墓まいりに行かない自分が有りました。
そして弟が亡くなった時に「神様、仏様、医師」に対する不信感がありましたが月日、年数とともに薄れてきて・・・宗教信者とまではいきませんが自分の中の信じる神様というものは存在するようになりました。
「神様、助けてくれましてありがとうございます」「神様、仏様、ご先祖様ありがとうございます」など、」うわべだけの感謝でしかありませんでしたが、そんな中、ダルクに繋がらせて頂き、普段の日常生活では行くことのない教会のミサに参加させてもらい、すごく神聖で厳かな気持ち、穏やかな気持ちになれました。
そして神父様のお言葉の中に以前、施設でのプログラムの中で受けた「リフレーミング」物事をはっきり言わない人だな→思慮深い人だな、短気な人だな→感情の豊かな人だな等、先入観で相手を見るのではなく、こちら側が違う捉え方、見方で相手を見れば相手のことも尊重でき、自分も穏やかな気持ちで居られるということを教えてもらい、そこにさらに教会で神父様の教えを聞かせてもらって感慨深いものがありました。
私自身が「短気な人間で有り」「物事をはっきり言わない人間」ですが自分のそういう短所を変えたい・・・
優柔不断な自分を変えたいという思いですが、ただ思うだけでなかなか変われない自分がありますが1日1日を大切に少しずつでも変わっていきたいと思います。
相手のことも先入観、偏見の目、思いで見る事のない様にします。
ハル
Contact form
ホームページをご覧いただきまして、誠にありがとうございます。ご質問・ご相談などございましたら、お電話・お問合せフォームからお気軽にお問合せください。
tel. 052-915-7284
電話受付/
平日 9:00~17:45 土祝 12:00〜17:00